quote panblr !!!

春日「我々はだってね、2本目はちゃんとやんなきゃいけないと、決めとかなきゃいけないと、トラウマがありますからね」

若林「あれ?どういうこと?」

春日「いやいやその、M-1でね」

若林「あ~、いやいや!だってレッドカーペットなんてM-1の全然前じゃん」

春日「M-1の前か?あ~、そうかそうか」

若林「うふっ」

春日「あ~、ちょっと間違えた、時間軸を」

若林「うふふっ、まあそうなりますよね、前の話だから、そんだけあんま本気でやってなかったってことになりますからね」

春日「ふふっ、そんなことはないけどね」

かつてのテレビ界には合い言葉がありました。「視聴者を巻き込め」というやつです。企画会議で必ず聞かされた言葉です。視聴者を、ただ受動的に番組を見る存在にしておかず、積極的な関与者にしろ(そう思わせろ)ということです。視聴者参加はその古典的な手法で、「電波少年」系の企画などは、その進化した姿です。送り手と受け手の間にあるテレビ画面という枠をいかに破壊するかということで、これは要するに、双方向性への希求です。テレビマンの腕の見せ所は、本質的に一方通行なテレビというメディアにおいて、それをどこまで擬似的に実現できるかにあり、テレビの進歩のエネルギーは、そこから生まれていたのです。

しかし、ウェブの登場ですべては変わりました。「視聴者を巻き込め」と、知恵の限りを尽くしてテレビが越えようとしていた壁の向こうに、きょとんとした顔でウェブがいる!そして勝手気ままに振る舞っている!この期に及んで壁を越えようとするのは、滑稽なばかりかテレビの存在意義を低下させるばかりです。そこで00年代中期からさかんにこう叫ばれ始めました。「テレビにしかできないこと」を探せ。

テレビ以上のものになろうとするのを止めて、テレビであることそれ自体の中に価値を見つけようというわけです。しかし、テレビにしかできないことは実はそんなにありません。なるほど局にはコンテンツ制作のノウハウはありますが、そこは何もテレビというメディアに縛られる必要はありません。テレビにしかないものを突き詰めれば、結局のところ過去へのノスタルジーと、華やかな芸能界と、大衆動員力に尽きるのです。

男子高校生が図書館に本を返します。女性の図書館司書(実験協力者)が「ありがとうございます」と受け取ります。その時に司書が高校生の気付かない程度に手に軽く触れます。
すると高校生の、その司書への好感度が上がるのです。
 手をチラッと触れられた高校生の方がそうでない高校生よりも司書を「魅力的」と思う割合が高まるわけです。本人が触れられたことに気付いてない場合でも、好感度が高いのです。さらに面白いのは、「魅力の理由」を尋ねられた時、
「笑顔が素敵だったから」「髪型がいいなぁと思った」
と、高校生は手に触れられたことに気付いていないので、自分の感情の理由をでっち上げてしまうのです。
・・・実験の根本の差異である「手に触れられるか」が、本当の理由ですが、本人はそれに気付いていない。
すると、人は自分の好悪の理由も分からないまま、本来の理由と異なる理由をこじつけてしまう。この脳の性質は「作話」と言われます。
(池谷裕二『ゆらぐ脳』P84より) (via breathnoir) (via raisec) (via petapeta) (via tanumawairo) (via extramegane) (via gomi5364) (via inu) (via hsmt) (via kazcorp) (via okadadada) (via lovevox) (via zukke) (via flood) (via umamoon) (via sin260)

日本テレビの長寿お笑い番組「笑点」に、昨秋から画面の見えない視覚障害者も音だけで楽しめるようアナウンサーがリアルタイムに場面説明をする副音声の解説放送が始まった。毎週楽しみにしている僕(全盲)にしてみれば、レギュラーメンバーは分かっているし、「山田が昇太をけ飛ばして座布団を持っていく」、「好楽の挑発でカッパのまねをする木久扇」など大喜利(おおぎり)で起こりそうなハプニングも聴衆の笑いで想像できるので正直、解説がなくても十分楽しめているつもりだ。唯一お手上げなのは前座のゲストがマジックや形態模写のとき。

先週(8月29日)も、いつものように5時過ぎに日テレをつけると、毎夏恒例の「24時間テレビ 愛は地球を救う」をやっていた。この手のお涙ちょうだい番組は趣味じゃないのでチャンネルを替えようとしたら、歌丸さんの声が聞こえてきた。なんと生放送で笑点をやるというのでそのまま待っていたのだが、「にこにことメンバー登場」といういつものナレーションが聞こえてこない。副音声解説は収録番組だけということなのか?

だがそこで疑問が起こった。がんばる障害者、恵まれない障害者に愛の手を、というこの番組の趣旨からすると、この日こそ音声解説を付けるべきじゃなかったのかと?

もしも「生放送には解説が付けられない」ということなら、「プロのアナウンサーが実況中継に対応できないってどういうこと?」というもう一つの疑問が起こる。

僕の疑問とは違うが、ネット掲示板で24時間テレビが物議をかもしているらしい。【岩下恭士】

9月1日 偽善は地球を救う? - 毎日jp(毎日新聞)

毎日jp「ユニバーサロン」の編集長、岩下さん(全盲)のコラム。

(via nakano) (via nemoi)

(via irregular-expression) (via reservoir) (via petapeta) (via budda) (via wideangle) (via hyasuura) (via gkojaz)

ソーシャルメディア革命はニュース配信ルートを大きく変えつつあり、報道機関のあり方を根底から揺るがしている。

(1) ソーシャル時代以前のニュース配信ルート
情報元 → 一次報道メディア → 二次報道メディア → RSS通知/検索エンジン → 一般ユーザー

(2) ソーシャル時代のニュース配信
情報元 → (一次報道メディア) → ブログやソーシャルメディア → 一般ユーザー

ここで一次報道メディアとは、独自取材ルートを持ち、最新ニュースをどこよりも早くキャッチし報道するメディア。二次報道メディアとは、一次報道メディアから発信された情報を加工して流している多くのメディアだ。

ソーシャルメディア関連情報を例にとると、一次報道メディアの役割を担っているのは、MashableやTechCrunch、InsideFacebook、SiliconAlleyInsiderなどごく一部の米国ブログメディアだ。大手を含む既存報道メディアはすでに個人ブログより遅く、かつ記事の質でも優位ではないため、その存在価値が日々薄れている。

さらに最近ではニュース現場に遭遇した一般の人々からリアルタイムにTweetが流れることも少なくない。そのため、一次報道メディアですら、その価値は速さだけでなく、どれだけ短時間に付加価値情報をプラスできるかにシフトしはじめている。

私に言わせれば、RSSが本当に生きていたことはない。何百万人かのギークやプロは、BloglinesなどのRSSリーダーを使っていたかもしれないが、Facebookの5億人やTwitterの1億人という数 ― ずっと短い期間に獲得している ― と比べてみてほしい。

それに、何年も前からおよそどの主要ブラウザーにもRSSが組み込まれていることを考えると、哀れでさえある。しかも、ホームページをカスタマイズするためにと、Googleなどの会社が強く推進してきたのに。

こういう考え方もある。ある技術を使う人が何百万人いたとしても、ほとんどの人が使っている意識がなければ、なくなっても困らないだろう。私の勘では、RSSがぴったりこれに当てはまると思う。TwitterやFacebookがRSSの息の根を止めることはないだろう。それは、多かれ少なかれ利用しているからだが、それも減り続けていくだろうし、モバイルも同様だ。

デスクトップのRSSが提供するユーザー体験もひどいが、モバイルを見てほしい。モバイル版Google Readerをインストールして、URLを入力して、RSS経由で購読する人などいるだろうか。コピー&ペーストさえするだろうか。しない。なぜならほとんどの人が知らないから。

Winerの言う、RSSを「再起動」するという発想には面白いところもあるが、標準化団体やスタートアップはこれまで何年それを考えてきたのか。少なくとも10年。その間に誰ひとりとして、有力なアイディアを出した人はいない。

商業音楽の世界ではクリエイター側の価値観、世界観を正確にユーザに伝えることが重要とされる。コンテンツの改変なんてもってのほかで、イメージコントロールをいかにうまくやるかがマーケティングの極意だ。こういう従来型の固定されたコンテンツフォーマットはネットと相性が悪い。


ネットは前述のようにコンテンツ消費速度が早いのでコンテンツの表現形式が固定だと、すぐに消費されてしまうことと、もうひとつ、簡単にコピーされるので売りにくい。


ネットではコピーされないために、また、消費速度を緩めて寿命を延ばすために、生命のようにうつりかわるコンテンツフォーマットが望ましい。ぼくはコンテンツ産業がネット時代に生き残るためには二次創作を自由に認めることが本質的に重要だと本気で思っている。


ボカロ音楽の場合だと、だれかネットの有名な歌い手が歌ったり、有名な絵描きがイラストを描いたりするごとに、コンテンツは生き返り、寿命を延ばす。いまの商業音楽のプロデューサがこの仕組みを理解して活用するのは、いままでの考え方と違いすぎるので、とても難しい。商業音楽では、アーティストは楽曲に対して特別な存在だからだ。


ただし、楽曲を歌手が独占できないことは人気ある歌手にとってマイナスばかりではない。どんな名曲が現れた場合でも、自分も歌手のひとりとして参戦できるからだ。


ボカロ音楽の世界では名曲も人気ある歌い手も、どちらも寿命が伸びるだろう。


ただし、歌い手についてはセルフプロデュースできないと人気者にはなれないだろう。

商業音楽がボカロ音楽に勝てない理由 - はてなポイント3万を使い切るまで死なない日記 

>ボカロ音楽の場合だと、だれかネットの有名な歌い手が歌ったり、有名な絵描きがイラストを描いたりするごとに、コンテンツは生き返り、寿命を延ばす。

VOCALOIDの動画で再生数・マイリスト数上位の動画はだいたいこの例に該当するけど、「初音ミクの消失」はこれの最たる例じゃないかな? 投稿のすぐあとから十分に注目されてたんだけど、一年と数カ月後にファンが新しいPVを作ったり、歌い手が歌ったりしてそれらの動画がかなり注目を集めたからなぁ(参考)。

(via syoichi)
最初は自分で楽しむためにコピーしたCD-Rをその後になって特定の知人に貸したり、このCD-Rを知人自らがPCに取り込むといった行為は、私的複製などの範囲を超えておらず著作権侵害ではありません。これに対して、知人に譲渡や貸与することを想定して音楽CDをコピーする行為は、そもそも私的複製に該当しません。
小学生A「Bくんのばーか!!」B「バ、バカって言ったやつが……刑法230条名誉毀損罪が成
立し、三年以下の懲役若しくは禁錮又は五十万円以下の罰金に処されます」A「【事実を摘示する】の要件に該当しないので名誉毀損は成立しません」B「確か
に、しかし同法231条の侮辱罪が成立します」
マクロで見ると日本人はイタリア人の倍働いて GDPは彼らと変わらん程度なんだけど。要するに時間当たりのGDPで考えたら 日本人は怠け者だと馬鹿にしてるイタリア人より2倍頭が悪いってことだ。いい加減馬鹿を時間で償うのをやめろ。